活動報告

Making of 「和次郎の朝鮮半島紀行」 その2

 「和次郎の朝鮮半島紀行」の企画が始まってから、もう3年。
 和次郎は、まだ釜山に上陸していません。まだ連絡船の中です。
 齋藤総督、キム・ソンスさん、浅川巧さんなどが、京城でじりじりと待っているのでは。
 すらすらと文章を書くはずの火田民平さんは、いったい何をしているのですかね。
 何やら、よい文章が書けるよう見聞を広げるために、ベトナムや台湾に行っているとか。
 お忙しいようです。

 さて、この間、とてもすばらしい本がソウル歴史博物館から発行されました。
 その名も「今和次郎 フィールドノート(1920年台 朝鮮の民家と生活の素描)」
 工学院大学図書館の今和次郎コレクションの中の研究野帳がほぼ網羅された力作です。
 この出版の中心となっているのが、あおもりコリアネットを支援して下さっているT教授。
 また、4年前に私が同コレクションを見せてもらいに行ったときにお世話になった、
O先生とK教授の論考も掲載されており、私にとっては堪らない一冊になっています。
 この本をわざわざ韓国から送って下さった、仁川お住まいの作家Tさん、本当にありがとうございます。

 私が工学院大学図書館で調査した目的は3つ。
① 和次郎が朝鮮調査を行った日程を書いたものがないか
② 調査旅費の精算書類がないか
③ 和次郎が浅川巧らと会った痕跡が残っていないか

 ①ですが、野帳の中からスケジュールを書いたメモが出てきたときは、胸が高鳴りました。
また、同時に建築家のOさんが9月13日に釜山に上陸したことを書いたメモを清書したものを下さいました。
 ③についても和次郎の手書きで、浅川巧から頂いたとのメモがある「温突の築き方と燃料」という
資料を発見!ドキドキしました。
 残念ながら、②にっいては、全く資料がありませんでした。
 おそらく、同行した小田内さんが予算を仕切っていたと推測されます。
 今回の本の中でT教授が書かれているように、この資料も東京大空襲で灰になったのでしょうか。
 旅費に余裕があったのか、柳の企画に共感したのか、あるいは巧にお世話になったと感じたのか、
和次郎は、巧に朝鮮民族博物館設立への寄附として50円を渡します。
 今の金額にしたら多分10万円くらいかなと思いますが、
経営者のキム・ソンスの1円と比べると際立った額です。

 今回発行された本には、浅川巧の日記の中で和次郎が2回登場することに周到に注意が払われています。
また、野帳のスケジュールメモがそのまま掲載され、私の持っているコピーでは不鮮明であったところも、
しっかりと注が付いています。
 ただ、このスケジュールメモですが、当初計画だった可能性があるように思います。

 9月30日に現在のソウル市議会の庁舎で、和次郎は総督府社会課主催の講演会で今回の調査の講演を行います。
講演の議事録が残っていて、当然ながら内容は調査報告書や翌年の朝鮮ホテルでの講演会と酷似しているわけですが、
初めの挨拶の方で、スケジュールメモでは前日か2日前には京城に戻っているはずが、
「今朝、夜行で咸興から帰ってきた」ことを述べています。
また、スケジュールメモでは、10月2日に全州に行っていることになっていますが、
巧の日記では、この日、和次郎から清涼里で50円を受け取っています。
当時、全州と京城の往復は早くて片道6~7時間かかります。
 和次郎さーん。いったい、いつどこに行っていたのですか?

 でも浅川巧の日記から推測できることもあります。
① 和次郎は来るときは小田内さんと一緒だったが、帰るときは一人で帰ったこと
  →日記では、いつ着くのか待ち焦がれた巧が、二人に会いにホテルに行ったことが記されています。
   また、和次郎の姿が京城から消えても、小田内さんはまだ巧と会っています。
② 小田内さんは、自分が京城に残ることを想定して、後半戦の大田や全州近辺の調査を和次郎が一人でできるよう、
 釜山に上陸して京城に向かう途中、大田等の総督府の出先の皆さんに会わせておいたのではないか。
  →巧の日記に書かれている二人の京城到着日時からすると、どこかで1泊した可能性が高いようです。
 こんなに突き詰めることができるのは、和次郎の野帳と、巧の日記が織りなす、一種の奇跡だと思います。

 和次郎は、「その5」では、京城に向かう列車の中で、釜山や大田を体験したこと回想し、
また、車内でも興味深い体験をする予定です。
 火田民平さんをせっついて、早く書いてもらわないと。

 角 俊行

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